■ガーシュイン(1898-1937)
「ラプソディー・イン・ブルー」などの作曲で、クラシック作曲家としても脚光を浴び始めたガーシュインは、1928年に休養をとるためにパリへ旅行したかたわら、本格的にクラシックの作曲法を学ぼうと、ラヴェルとストラヴィンスキーに会いに行きます。ところがいざ会いに行ってみるとラヴェルからは「君は一流のガーシュインなのに、何も二流のラヴェルになることはないだろう」と逆に励まされ、ストラヴィンスキーからは「ところでガーシュイン君、君は年にいったい何万ドルくらい稼ぐんだい?」と聞かれ、「はい先生、約5万ドルほどです」と正直に答えると、「じゃ、こちらの方が教えてもらいたいくらいだよ」とからかわれたりと、さんざんな目にあったといいます。ちなみに、この旅行の時の印象を音画としてまとめたのが、現在でも「ラプソディー・イン・ブルー」とともに人気の高い「パリのアメリカ人」です。
■サティー(1866-1925)
彼の作品には、「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「ひからびた胎児」「猿の王の夢を覚ませるための鐘」など、妙な曲名が多く出てきます。また、楽譜の中にも「歯が痛いうぐいすのように」「驚きながら」「舌の上で」などの変わった演奏表現の指示が多く出てきます。彼はタイトルや指示をこういう表現にすることで、改めて演奏者にその意味を考えさせようとしたのです。また、彼の作品では「ジムノペディー」という曲が一番有名ですが、一つのフレーズを非常にゆっくり840回繰り返せ、なんていう、とんでもない指示をしている「ヴェクサシオン」というピアノ曲もあります。この曲名の意味は「嫌がらせ、いらだち」。ちなみにこの曲、まともに演奏すると15時間以上(!)かかってしまいます。彼はまた、皮肉屋としても有名です。
■サンサーンス(1835-1921)
彼は、気まぐれで神経質、怒りっぽいところがある反面、優しく思いやりもある人物だったようです。また豊かな教養人でもあり、文学、哲学、天文学、考古学などにも興味を持ち続けました。ドビュッシーが全く理解できずに敵対し、親友フォーレの晩年の作品にでさえ、とまどいを覚えました。また、ストラヴィンスキーの「春の祭典」を耳にしたときには「彼は狂気だ!」と何度も叫び散らし非常に憤慨したそうです。彼は非常に保守的な人物であったようです。
■シューベルト(1797-1828)
1828年に完成した交響曲第9番は「あまりに長くて演奏困難」とウイーン楽友協会に初演を断られてしまいます。そして、その8ヶ月後にシューベルトが亡くなってしまい、この曲は完全に忘れ去られてしまいましたが、1839年にシューベルトの兄の家を訪れたシューマンがこの曲を発見、「天国的な長さだ!」と絶賛しました。この曲が「ザ・グレイト」と呼ばれるのはそのためです。そしてこの年、メンデルスゾーンの指揮で初演が行われ、「交響曲第9番」は見事に復活を果たしました。
■シューマン(1810-1856)
彼ははじめピアニストを目指していたのですが、ピアノの練習のしすぎなどで腕をおかしくしてしまいます。そこで、作曲家として活躍することになったのですが、40歳頃から精神異常になり、44歳の冬には「虎とハイエナの形をした化け物が襲ってくる!」と発狂し、ライン河に飛び込み自殺を図ってしまいます。幸いこの時一命は取り留めましたが、その後廃人同然となってしまい、その2年後に死亡してしまいました。
■ストラヴィンスキー(1882-1971)
彼の作った「春の祭典」の初演は一大センセーションを巻き起こしました。初演を耳にした聴衆がだれ一人としてこの曲を理解できず大騒ぎしたからです。彼は自伝にこう書いています。「・・・たちまち嘲笑がおこった前奏の初めの幾小節かを聞いただけで、私は立ち去ってしまったのだから、判断を下す資格はない。私はまったくうんざりした。初めのうちは孤立していたこれらの示威行為は、間もなく連帯を呼び、ついで反対の示威がわきおこり、寸時にして恐るべき騒ぎになった。上演の間中、わたしは舞台の袖で、ニジンスキーの傍らにいた。彼は16・17・18と金切り声をあげながら、椅子の上に立っていた。・・・私はその服をつかまえてニジンスキーをひきとめなければならなかった。なぜなら怒り狂っていて、いつ何時舞台にかけ上がってたいへんなはじさらしをしかねまじかったからである。ディアギレフといえば、そうでもしたらさわぎがしずまると思ってか照明係にライトを明滅するように命じていた」
また、初演を指揮したピエール・モントゥーも「作曲者は即刻絞首刑にすべきである」と怒ったそうです。
■チャイコフスキー(1840-1893)
1877年、彼はアントリーナ・ミリューコワという女性に熱烈な手紙を受け、この女性と結婚します。しかし、結婚生活はうまくいかず(彼は同性愛者)、精神的にも肉体的にも疲れ果ててしまい、モスクワ河で凍死しようと自殺を試みます。(死ねなくて途中で出てきました。)また、フォン・メック夫人という見ず知らずの人物に「お互いずっと顔を合わせないこと」を前提に13年間、経済的援助を受け、この間に交響曲第4番などを完成させました。なお、一般的に彼の死因は生水を飲んでコレラに感染した、ということになっていますが、最近の研究ではある青年との同性愛がばれて、封建的な旧ロシア社会の圧力によって自殺を強要させられた、という説の方が有力のようです。
■ドビュッシー(1862-1918)
彼はなかなかプレイボーイ。ある時、10年間同棲していたガブリエル・デュポンという女性をあっさり捨て、すぐにロザリー・テクシュという女性と結婚してしまいます。そのことに失望したデュポンはピストル自殺を図り危うく助けられます。が数年後、ロザリーもまた彼に裏切られ、彼女もピストル自殺を図ってしまいます。原因はドビュッシーがエンマ・バルダックという新しい女性と駆け落ちをして子供まで作ってしまったからです。ロザリーも一命は取り留めたが、その後は悲惨な生活を送ったといいます。もちろんこの時、ドビュッシーは大批難を浴びており、周囲の友人たちも次々に彼の元から去っていきました。さらには、やがて発表した交響詩「海」も内容と関係なく大変批判されてしまいました。ちなみに、この「海」は葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」からインスピレーションを得て作ったそうです。(初版のスコアにも、この絵が使われた。)
■J.S.バッハ(1685-1750)
1749年5月、バッハは脳卒中で倒れ視力が急低下します。そこで翌年彼はフォン・ティラーという人物に目の手術を受けることになるのですが、それがもとで失明してしまいます。ティラーはプロイセンのフリードリヒ大王に国外追放にされるほどの、大変なインチキ医者だったのです。高齢だったバッハのこの手術での体力消耗は激しく、その4ヶ月後にはこの世を去ってしまいました。
■マーラー(1860-1911)
彼は指揮者としても活躍しましたが、その指揮ぶりは非常に激しく劇的であったようです。そして、非常に気分の変化が激しく、急に怒鳴りだしたり、とても上機嫌に笑っているかと思うと突然深く落ち込みだしたりすることがあったそうです。ひどい頭痛に悩まされることもあったといいます。また、彼の曲には常に「死」というテーマが入っており、実際に列車のくる線路に横たわり自殺者の気分を味わってみたり、交響曲6番で「英雄が敵から攻撃を受け木の倒れるごとく倒れ込む」ことを表して書いた3度のハンマーの音に、この音を聞いたら実際に自分も死んでしまうのではないか、という恐怖で正常に指揮ができなかったり、ということもあったようです。交響曲第9番を作った後に死んでしまう作曲家が多いことを気にしてあえて9番目の交響曲を「大地の歌」というタイトルにして発表しましたが、その次に書いた、本来なら10番めの交響曲「交響曲第9番」の発表を最後にこの世を去ってしまったことも、まことに皮肉な話です。
■モーツアルト(1756-1791)
3歳で絶対音感のあることを示し、8歳で交響曲まで書いてしまった「神童」モーツアルトですが、彼は「戦記を読むのは難しい」という曲(カノン)で、ラテン語風の語呂合わせの歌詞が全体を聞くとドイツ語で「尻なめろ!」と聞こえるという、お下品な曲を作っています。また、従妹に下品な内容の手紙を送ったりもしていたようです。しかし、短時間で1曲をすんなり完成させてしまうところや、その楽譜に書き直しがほとんどないことなどはさすがモーツアルトという感じです。(ちなみに「ドン・ジョバンニ」序曲はなんと初演の前夜に作曲したそうです。)また、彼は大変な旅好きで、人生の約3分の1を旅に費やしたといわれています。
■ラフマニノフ(1873-1943)
ペテルブルク音楽院を卒業して間もなく、彼は自信作の「交響曲第1番」を発表しますが初演は大失敗。様々な酷評を受け、それがもとで彼は極度のノイローゼになってしまいます。そこでモスクワのダール博士のもとに向かい催眠療法を受け、そこで博士に「すぐに作品を書き始めなさい。大傑作ができる」と言われ、立ち直って「ピアノ協奏曲第2番」を作曲します。この作品は初演後ただちに大評判になり、ノイローゼも回復する事ができました。ラフマニノフの出世作となったこの作品は、もちろんダール博士に捧げられています。ちなみにラフマニノフは非常に巨大な手の持ち主で、手を広げると親指の先から小指の先までの長さがなんと27センチメートル(!)もあったということです。
■ラヴェル(1875-1937)
1932年にタクシーに乗っていて衝突事故に巻き込まれてしまいます。初めは歯は折れたものの命に別状はないかと思われていましが、その時に頭を打ったことで脳をやられてしまい、その後作曲ができなくなってしまいました。その病状は悪化するばかりで日常生活にも支障をきたし、5年後には脳の手術も受けますが、その甲斐もなく世を去ってしまいました。彼は事故に遭ってから「作りたい曲は沢山あるのにそれができない」と嘆いていたそうです。
■ワーグナー(1813-1883)
「自分の曲がヒットしないのはわからない世間が悪い」「芸術家に貢ぐのは享受者として当然」などといって借金を踏み倒したりした彼は、女性関係でも派手でした。21歳でミンナ・プラナーという女性と結婚しましが、その後ワーグナーを援助した裕福な葡萄酒商人の妻、マチルデと本気で愛し合い、それがもとでミンナと破局。一人となったワーグナーは50歳の時に、今度は弟子であったハンス・フォン・ビューローの妻、コジマ(リストの娘)を寝取り、二人の子供まで作ってしまいます。そのときビューローは「相手がワーグナーでなかったら奴のこめかみにピストルをぶち込んでやるのだが」と激怒したということです。
参考図書:音楽の友社/宮本英世著「作曲家とっておきの話」、全音出版社/塚谷晃弘訳「ストラヴィンスキー自伝」、新潮文庫/船山隆著「マーラー」、各作曲家のスコアの解説、各作曲家のCDの解説 など
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